昭和42年06月16日 夜の御理解



 今日、久留米の古賀さん達が、夫婦で、昨日のお礼に出てまいりましたので、その時に、昨日忘れておりましたと言うて、参拝者にみんな、内祝いの印にと言うて、その、見事な短冊掛が、一人ひとり用意してございました。それを忘れておったからというて今日、持って見えました。開いてみましたら、なかなか見事な短冊掛でした。本当にあの、先日、久留米の、石橋先生の式念祭の時に頂いておりました。
 短冊を出して掛させて頂いたら、最近ここのお祭りの時の記念品の信心辛抱のものでございますですね。金光様のお言葉で御座います。神信心には辛抱する事が一番大切でございますとこう仰る期せずしてその今度の、石橋先生の偲び草もやはり信心辛抱しとりさえすれば物事は整わん事はないという、金光様から石橋先生がお頂きになられた、それがお短冊とそれから、色紙にあ教会には色紙を頂き個人は短冊を頂いた。
 それを期せずして今日あそこへ二つ並べて、まあ愈々その信心辛抱ということの、意義というか有難さというか、信心させて頂くものが、どうでもここんところのおかげを受けなければならないなという、今朝からの御理解を頂いておりましても、やはりそうでございました。ね、好きなものには目がないと。その、そこんところをですね。一つの理性をもってというか、神様におすがりしてというか。
 そこんところを辛抱させて頂く時に、頂くのが力である。例えば一つの難儀な問題が起きてまいりましても、その難儀を突破しうるだけの力は、常日頃にそういう、辛抱の徳を身に付けておく事によって、それが頂けれるんだという事を、今朝からも頂ましたが、小倉の先代のお連れ合いでありますところの、大奥様がお若い時に大変難儀なことを、四神様にお届けになったときに。
 四神様が仰っておられる言葉も、やっぱりそうである。おみっつぁん苦しいかと。もう苦しいの段じゃございませんと。もう他のことなら辛抱出来ますけれども、このことだけは辛抱できんと言うて、まあお届けに訴えなさったわけなんですね四神様に。そしたら四神様が、あの仰っておられることが。おみっつぁんそこじゃとその辛抱の出来んところを神にすがって辛抱するのぞとこう仰ったんです。
 辛抱の出来んところをその、神にすがって辛抱するのぞと。これが神にすがっての辛抱でないならば、それが例えば抱いたしましても、やはり頂くものは力でしょうけれども、それには我の力我力なんです。我力ではつまらん。神にすがっての信心辛抱でなからなければならない。いわゆる、信心辛抱でなからなければならない。なるほど、神信心には、辛抱することが一番と仰っておられます、三代金光様が。
 一番大切でございますという事になるのである。信心辛抱さえしておれば物事整わんことはないと仰っておられる。ただ辛抱しよるだけじゃない信心辛抱さえしておればである。そこに頂けれるのが力であると言う事を思うのです。私共がね我力の辛抱になっちゃなりません。どこまでもやはり信心辛抱。もう日々の中にちょっと心掛けさせて頂きますと、その信心辛抱の徳を身に付けていけれる材料は沢山ございます。ね、
 ですからそこんところを私共は、神様にそれこそ神にすがっての信心辛抱させて頂く、そういう蓄えというかそういう力のそういう辛抱の蓄積というものがです、ね。愈々問題に直面した時にその問題を問題とせずに、それを神ながらに受け抜いていけれる力というものが、いつの間にか備わる。それを知っとるだけじゃつまらぬ。その稽古しておかずして、いよいよの時に、それこそ大きなおかげの受けられる。
 大きな節に直面してもです、その節を節から挫折することになったり、ね。その節をしだごだで通っただけでは、私は力にもおかげにもならんとこう思う。ですからどうぞ信心はもう、常日頃の辛抱の稽古をさせて頂くのである。ね。信心辛抱のやはり稽古をさせて貰う。ね。一つ今日その信心辛抱の短冊とか色紙とか、またここの記念品でございました色紙を見せていただくにつけてからです。
 なるほどあれも信心辛抱、これも信心辛抱だけれど、ね。なるほど信心辛抱が如何に大切かという事を、いやその信心辛抱と言う事は、もう日々です心がけさせた頂けば神様にすがって辛抱することができれる辛抱をです、ね。そこんところをしだごだにして行って、信心辛抱の徳が身に頂ける筈がない。いよいよのところをやはり有難く頂きぬかせて頂けれることができるはずがない。ね。
 そこんところを一つしっかり、皆さんおかげを頂かねばなりません。皆さんも久留米の色紙をお受けになっておられる方もございましょう。また三代金光様のお言葉の、あの辛抱の御教えを、皆さんが銘々お持ちになっておられると思いますけれども、それがただの飾りといったようなものではなくてです。あれを日々自分の信心の上に頂かせていただくと言う事がです。
 もうこれは大変な修行だとこう思うのです。ね。その修行が神様に許されるところの力。または自分で辛抱し抜く人もありますけれども、それは私は我力にしかならない。もう我力と私は信心辛抱の徳というのはもう大変な相違、違いがあるのでございますからもうやはり稽古するならそこにあると思いますですねえ。どうぞ一つ信心辛抱を日々の中にです、また些細なことの中にでも一つなさらなければいけません。ね。
 今朝の御理解を頂きますと色々具体的な例を持ってお話をしております。ね。ほんとにあの好きなもののために辛抱が出来ないために、ね。健康を害したりね。好きなもののためにその好きなものと、いわば命を取替えなければならない事になったり、ね。好きなものがあるという事はいけないのじゃない。けれどもそれを有り難く頂かせて貰う為には、やはりそこに自責、いわゆる辛抱が大事。ね。
 十のものは八つ食べ物で言うなら腹八分というような頂き方。ところがその私共が信心を抜きに致しますとです、それにむさぼりつくようにして、食べたり行うたりするところにです、ね。自分の命までもまたは健康までも害しなければならない。その事によって人の信用神様の信用までも落とさなければならないといったような結果にすら、なりかねないのでございます。どうぞここんところに神様へすがっての辛抱が、日々なされなければならんと思うですね。
   どうぞ。